茶道の哲学 (講談社学術文庫)作者: 久松真一,藤吉慈海出版社/メーカー: 講談社発売日: 1987/12/04メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 11回この商品を含むブログ (8件) を見る

 読了。
 茶の湯における宗教的、哲学的面、即ち茶道について、その根本を考察した本。
 作者によると、禅問答では、仏法の根本とは如何にとの問いに、行住坐臥著衣喫飯(日常生活の活動)だと答える。日常生活の外に仏法があるのではなく、日常そのものが仏法のはたらきなのだとする。
 この考え方を踏まえた上で、作者は利休言うところの「茶の湯とはただ湯をわかし茶を立てて飲むばかりなるものとしるべし」について考察する。
 この語句は、茶の湯とは堅苦しくルールを守るものではないのだ、と単に解釈されがちであるが、作者としては、それは間違っている。日常即ち仏法と同じく、ただ湯をわかし茶を飲むことが行われたとき、それはそのまま根源的な悟りに通じうる。悟りの中での茶の湯は、自由に行ってもルールを超えず、ルールを創る。と言うのが作者の主張である。よって、気軽にルールなど気にせず茶を飲めばよいなどとはとんでもない話。ただ茶を飲むだけでも仏の道なのだ。
 この考え方を中核として、禅の教えを踏まえながら、作者は茶道の果たすべき役割や侘びの深い意味を説いていく。ただ、以前に自分が書いたことだが、茶道は仏教を参考にスタートしてはいるものの、異なる宗教であると考えられる。
 仏教であれば、なぜ美を欲する。欲望にとらわれているではないか。
 どうして主は客に茶を必ず飲ませねばならないのだ。茶の湯仏道における日常生活の活動とするには無理がある。自然な営みとしては、あのように複雑な礼法に従って抹茶を飲むわけがない。そこには、仏教からは遠く離れた強いこだわりがある。
 現代の茶道はまるで仏道を踏まえていないが、いくら精神性が廃れたなどとしても、根本が仏教なのであればそこまでのことは起きえないのではないか。ただのお祭りと化したクリスマスにだって、もうちょっとはキリスト教文化が残っている。
 作者は茶の湯ありきで考察しているため、茶を飲む理由自体には考察がなされておらず、こうした疑問には答えてくれない。これについては自分なりに遊びの面からの答えを見つけたので、改めて書いてみることにする。