茶と美

茶と美 (講談社学術文庫)

茶と美 (講談社学術文庫)

 魯山人と同時代の人である柳宗悦が、徹底して長次郎(楽焼)を否定し、芸術家よりも職人を称揚するのは魯山人と対照的で面白い。
 無名であった各地の産物を評価し紹介していく上で、柳宗悦の主張は大いに貢献したのだろう。とは言え、無名の陶工が作る井戸茶碗は欲がなく作為がないから美しくありうる、というのは、大衆よ清貧であれという一方的なロマンチシズムを感じてしまう。陶工には本当に表現欲がなかったのか。楽焼については我々は知っていて、井戸茶碗については知らないだけではないのか。無名の陶工は、名を上げ自己を主張できるものならばしたかったのではないのか。井戸茶碗と楽焼の美を見ているのではなく、その物語に感情移入しているのではないか。
 柳宗悦の主張する量産の美は、たやすく機械化に飲み込まれてしまう。彼の主張では、工人たちを幸せにはできない。個性を主張しない工人に価値を置く以上、その工人は誰とでも置換しうる存在にすぎなくなる。そう、機械とでも。
 個人の名では語られず、地域の名においてのみ個性を主張していた産物について、彼はその美を広めた。だが、その産物がいざ評価されたとき、その次に起こるのは隠れていた個人の登場であることは無視した。それが彼の説の限界なのではなかろうか。工人たちは、決して名もなく貧しく美しい集団なのではない。あなたが名前を知らないだけなのだ。