<お茶>はなぜ女のものになったか

 かつては男性文化だった茶道がいまや女性主体となっている理由について解き明かしてみせる本。
 筆者は文化人類学の術法を用い、統計分析・比較とフィールドワークを通じて考察を進める。
 戦後に家族形態が変化して女性の専業主婦化が進んだ結果、社会とのつながりが弱まった女性は家庭外でのお茶にアイデンティティを求めた。あわせて、茶道がその社会的意義を作法および総合文化に求めたことにより、女性の実用的訓練および学習意欲に応えた。この相互作用で女性に茶道が普及したというのが、おおまかな本書の内容である。
 なかなか面白いのだが、では男性が少ない理由については、女性主体となったために気が引けるといった論にとどまっていて物足りない。本書の論法にしたがって考えると、会社員であることにアイデンティティを見出せた男たちには、経済性と関係のない総合文化や伝統的権威にアイデンティティを求める必要がなかった、というところだろうか。
 同じ筆者によるお茶が女性に与える力〜二番手がトップに対抗するためにつくり出された文化〜も合わせて読むと、より興味深い。お茶はそもそもが「トップから二番目の人が、トップのグループに対抗するために始めたもの」なのだそうである。漫画「へうげもの」の主人公が出世か茶か悩み続けるのは象徴的だ。自分としては、キリスト教などの宗教も同じような機能を持っているように思える。なお、筆者は成人してから入信したキリスト者である。
 ちなみに自分としては、茶道における男女差には単純に趣味としての面白さの差もあると考えている。
 男性にとって茶道の魅力には道具遊びの面が強い。男はスペック自慢やコレクションが大好きなのだ。しかし現実には名のある道具を使うことなどほとんど不可能に近い。戦前であれば名物などは遠い世界の夢として無視もできたが、戦後は茶道関係の美術館が作られ、その存在自体は一般に知られてしまった。そんな状況で、手の届く範囲に限定された道具遊びをやるのはつらいものがある。車でも買ってやっぱり日本車最高と言ったりしているほうが気も楽だ。
 対するに女性は、一般的に言って道具自慢へのこだわりが薄い。名のある道具を持つことよりも、文化を学習することに重きが置かれるだろう。持たざることが恥ではないのだ。ゆえに女性は茶を楽しむことができ、男性は憂えることになる。
 女性主体の文化としては宝塚も茶道に近いのではなかろうか。男性とは切り離された世界で、女性が女性であることを謳歌している。いずれ誰かが宝塚も文化人類学的に研究してくれることを期待したい。